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あの日から2年後の誰もいないところは・・・

あの日。 3月11日。 以前、右の人(大越キャスターのこと)が、福島第一原発に行ったときのことを書いてくれた。 そして、先週の金曜日は、原発事故で警戒区域になった福島県の町に行った。

信号機は黄色または赤色の点滅、町は建物だけ。
しかもあの日のままであり、一瞬見えたシャッターの姿は悲惨なものであった。
公園の状況も良くはない。 警戒区域にあり、人は誰もいない。 ということは、管理人もいないということだ。 つまり、除草も出来ない。というより、徐染作業が出来ないのである。
しかし、この事に関しても、厄介なニュースが入ってきた。しっかりやってもらわなければまずい。 これを成功させることは、将来の町の復興もかかっているのだから。

次に、住宅について見てみよう。
彼が歩いた通りには、立派な家々が立っていた。 しかし、そこには、何も出来ない状態である。 家の庭の道具はすべて片付けられ、窓は確実に閉まった様子であった。
震災直後から原子力発電所の問題に立たされ、少しでも放射能が中に入らないようにしたのだろう。
一通りのVTRが終わり、中継に切り替わると、街灯が光る町の様子。 地震と津波でやられても、電気は生きていたようだ。 そして、2年も無言で町の道路を照らし続けている…いまだに原発事故の終息がつかない警戒区域の町の現実。 だから復興はいまだに進まないと私は思う。

この他にも、震災関連の特集の感想を書きたいが、これ以上気を悪くさせてはいかん。 やはり、宮城や岩手県では、少しずつであるが、着実に復興は進んでいるように、私はニュースを通してであるが、感じる事が多い。
しかし、福島県は違う。 確かに他の県とは事情が違う。 復興を『原発事故』が行く手を遮っているのだ。 でも、別の場所で生活を初めている方々もいる。 しかし、本心は、皆同じであると感じる。 『地元に、帰りたいわ。』

余談であるが、原発の敷地内で、未成年の子を働かせていたというニュースを見たとき、私は、いらだちと過酷さを感じた。
おとといには彼が原発敷地内を訪れた。そして、長き戦いに立ち向かわなければならない。 また、作業員も次第に現象傾向になっていくのではないか。 あの服装を毎日やり、過酷な現場に何時間も…あのVTRをご覧になればお分かりになるが、まさに長き戦いを、後世の子供たちもやるとなると、より一層悲しみが出てくる。
昨日、首相会見をネットで拝見させていただいた。やはり、この震災は、まさに『現在進行形』。
だから、今は我々が出来る限りのことをしよう。 東北の物を買う。東北に行って、現実を目に焼き付ける。 など、やれることはいっぱいある。
私は、この茨城でやることにした。 今、私がやりたい事は、もっと茨城を勉強したい。 SLを見に行ったのは、まさに『茨城魂』を見せつけるためだ。
話が長引いてしまったが、震災2年目の今の自分の心境と思ってほしく、終わりとする。

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